仏像の起源

仏像の起源 —仏像はなぜパンチパーマなの—

釈尊は実在していたので、釈迦如来像は人間の姿をしているのは分かりますが、阿弥陀如来像や大日如来像はどうして人間の姿をしているでしょうか。また、釈尊は出家して剃髪していたはずなのに、なぜ、釈迦如来像は有髪でしかもパンチパーマなのでしょうか。その他、なぜ、頭が二重になっていて、耳があんなに大きいのでしょうか。 これらの疑問をクシャン朝時代(1~4世紀)にガンダーラ(パキスタン北部)、マトゥラー(インド北部)にて仏像が誕生した歴史的、民族的経緯とともに、3~4世紀の実物の仏頭を拝観しながら解説します。

 

仏像の起源

はじめに

釈迦は実在した人物であるから、釈迦如来像は人間の姿をしているのは分かるが、阿弥陀如来像や大日如来像など仏像はどうして人間の姿をしているのか。  釈迦は出家して剃髪していたはずなのに、なぜ、釈迦如来像は有髪でしかもパンチパーマなのか。  その他、なぜ、頭が二重になっているのか、どうして耳が大きいのか。これらの疑問をガンダーラ(パキスタン北部)、マトゥラー(インド北部)にて仏像が誕生した経緯を通じて解説する。  また、シルクロードに沿ってガンダーラから西域、中国、朝鮮そして日本へと仏教の東漸とともに仏像の変化・発展を敦煌莫高窟、雲崗石窟(中国)での取材記を織り交ぜながら追ってみる。

 

準 備

釈迦の呼称 本名(俗名)はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)またはガウタマ・シッダールタ(梵語: Gautama siddhaartha)、漢訳では瞿(く)曇(どん) 悉(しっ)達(だっ)多(た)と伝えられる。 「釈迦」は釈迦牟(しゃかむ)尼(に)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」などとなる。 称号を加え、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来ともいう。 略して釈迦尊、釈尊(しゃくそん)、釈迦仏、釈迦如来ともいう。 仏陀(ブッダ)とは、仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。しかし、一般には、仏陀というと、釈迦牟尼を指すことが多い。

 

仏教の誕生と伝播

仏教の開祖は、釈迦と呼ばれているが、正式の姓は、ゴータマ、名前はシッダッタという。紀元前463年ころ(前624年、前563年とする説がある)に、釈迦族の中心地であるカピラ城(現在のネパール)に国王スッドーダナ王(浄飯王)の長子として生まれた。  青年時代には、王子として家庭をもち、現世的な生活にふけっていたが、それに満足せず、深く人生の問題を考えるようになった。  29歳で出家して、修行者となり、6年間苦行を実行したが、その無意味なことを知り、中インドのブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、ついに悟りを開いてブッダ(仏陀、真理を覚った者)になった。
その後、ガンジス川の中流域からネパールにわたる地域を歴遊して教化に努めた。
80歳でクシナガラにて入滅(涅槃)した。
仏教を信奉する教団(サンガ)は出家修行者と在家信者から構成されていた。釈迦の死後100年ほどで、その教団は分裂し始め、伝統的・保守的な戒律を守ろうとする一派(上座部)と戒律の実践について多少の変更を認めようとする自由主義的な一派(大衆部)に分かれた。
前3世紀 マウルヤ王朝のアショーカ王の「仏教保護・宣布」政策によりガンダーラ地方にも広がる。
紀元1世紀ころ、大衆部を基盤として、釈迦の教えに新しい見解を加えるようになり、自らを「大乗」と称し、従前の保守派を「小乗」と呼んだ。(小乗とは蔑称であり、上座部が正しい)
その後、上座部仏教は、スリランカ、東南アジアへ広まった。大乗仏教はガンダーラから西域を経て、中国、朝鮮そして日本へと広まった。

 

仏像の無い時代

仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られなかった。さて、造る技術がなかったのか、それとも造る必要がなかったのか。その謎に迫る。
釈迦の生前には
釈迦の教えというのは、自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を多くの人々に分かりやすく説いたものなので、自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されなかった。
釈迦の涅槃後(死後)には
釈迦の遺骨(舎利)を崇拝する思想が起こり、その舎利を祀るストゥーパ(仏塔、卒塔婆)が造られ、その周辺に、仏教を学ぶための僧院(ヴィハーラ)も建てられるようになった。
更に時代が進むと
ストゥーパのまわりに、塔門や欄楯(玉垣)が設けられ、その柱や梁には装飾のため、仏伝図(釈迦の一代記)や本生譚(釈迦の前世の修行物語)などの浮き彫りが施された。しかし、人間の姿をした釈迦の仏像は皆無である。有名な仏塔として、パールフット、ボドガヤー、サーンチーの仏塔(前2~1世紀造営)がある。
釈迦と表現する代わりに、象徴的な事物で存在を暗示していた。例えば、釈迦がシッダールタ太子の時にかぶっていたターバン、坐っていた玉座、足跡、悟りを開いた時の菩提樹、遺骨を埋葬した墓(ストゥーパ、卒塔婆)などである。


サーンチーの仏塔(ストゥーパ)(中インド) )

初転法輪(東京国立博物館

 

なぜ、インド人はこのような象徴的な事物で満足していたか

それには次のような理由が考えられる。
* 仏教教団側が釈迦の偶像、礼拝像を造ることを禁止あるいは不適当とみなしていた。釈迦は涅槃に入ってしまったのであるから、いかなる世界にも存在せず、人間が目にすることは出来ないと考えた。
* 釈迦はあまりにも偉大であり人間のような姿(有限の彫刻や絵画)で現すことはできない。
* 仏像とは釈迦の肖像であるが、古代インドには肖像の伝統が存在しなかった。それは、輪廻転生の観念がその根本にある。
* 仏教徒として重要なのは、仏陀(釈迦)の説いた真理、法であって、仏像ではない。

しかし、インドには人間の姿で神を表す伝統や技術は存在した。例えば、インドラ神、スールヤ神、ヤクシャ、ヤクシニーなど神像があげられる。


ヤクシニー女神像(サンチー仏塔の門)

ブッダガヤ大塔の仏足石
大乗仏教の特徴
上座部仏教では、釈迦ひとりを仏陀として拝するのに対して、大乗仏教では、十方(または四方)に仏(如来)がおり、釈迦は、それらの仏の一人に過ぎなく、多くの諸仏、諸菩薩の加護を請い、その慈悲の力によって救われると考えた。

 

仏像の誕生

仏伝図浮彫の中の仏像
仏像が最初に表現されたのは「祇園布施」と呼ばれている仏伝図浮彫であると言われている。仏弟子一人を従えた釈迦が右手を胸前に挙げ、4人の信者たちと向かい合って立ち、布施の申し出を受けている情景である。出土はガンダーラ地方と思われる。時代は、1世紀中ごろであろう。

祇園布施 (カラチ国立博物館)

仏陀像の強調
構図の中心となる仏陀像だけを他より際立たせ大きく表す傾向が現れる。
その理由として、仏の身長が普通人の2倍であるとする経典の説に基づいたものとすれば一応の解釈はできるが、仏を偉大で超人的で普通人とは異なる特別の存在であると信じて疑わなかった仏教徒の信仰が強く作用しているものと思われる。

菩提座の準備 (英国個人蔵)
単独仏像の出現
単独の仏像は、仏伝図における主役強調の段階からさらに進んで、その主役である仏だけを独立させ、礼拝供養のための像としたものであるという説がある。その時期として紀元120~130年ころと推定される。(マーシャル卿・高田修博士 説)
それに対して、仏像はガンダーラの象徴的美術伝統の中から生まれてきたのであって、仏伝図浮彫は単独の仏像が出現してから制作されるようになったという説がある。(田辺勝美氏 説)

早期の仏陀立像 (ペシャワール博物館)

仏陀像の貨幣
考古学的に確実な仏像としてカニシカ王発行の仏像を図した貨幣がある。この金貨は2世紀のもので、表にはカニシカ王、裏には施無畏印の仏陀立像が表されている。仏陀は螺髪であり、これは仏像として遅い形式である。つまり、それに先行する仏像が存在していたことを示唆している。


カニシカ1世 金貨(平山郁夫シルクロード美術館)


カニシカ1世 銅貨

余談
カニシカ王を図した銅貨は大量に出土しているので、1枚数千円程度で流通しているが、裏が仏陀像の銅貨は、千枚から3千枚に1枚程度なので、数万~数十万円となる。その金貨はいくらなのか見当もつかない。

 

仏像とは、何を言うのか

仏像とは、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。仏(仏陀、如来)の元の意味は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(釈尊、釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などのさまざまな「仏」の像が造られるようになった。
「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指すが、一般的には菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を指して「仏像」と言っている。広義には画像、版画なども含まれるが、一般に「仏像」という時は立体的に表された彫像を指すことが多い。

仏像の種類
如来 仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち、修業を完成し、悟りを開いた人の意。三十二相八十種好と呼ばれる特徴があるが、かならずしも全てを表現されていない。頭部が盛り上がっている(肉髻)、頭髪が右巻に渦巻いている(螺髪)、眉間から伸びた身長くらいの長さの白い毛が右巻に渦巻いている(白毫)、体が金色である、装飾品は身に付けない等。 通常、衣服は衲衣と裳を纏っているだけである。大日如来だけは例外で菩薩のように着飾っている。如来は印を結んでいるので、この印相で見分けることが出来る。 持物は持たないが薬師如来だけは薬壷を持っている。

菩薩 成仏を求め修行を積む人の意。一般的な姿は上半身に条帛(じょうはく)を纏って、下半身に裳を着け、天衣(てんね)を両肩から垂れ下げている。髻を結い上げて宝冠を頂き、また瓔珞(ようらく)、耳?(じとう)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)などの装飾品をしている。地蔵菩薩だけは頭を丸めて宝冠もつけず、僧の姿で表わされる。 如来のように印は結ばず、それぞれ持物(じもつ)を持っている。

明王 未だ教えに従わない救い難い衆生を力づくでも帰依させるために、明王が大日如来の命を受けたとも、如来が自ら明王に変化したとも伝えられている。恐ろしい外貌と激しい憤怒の相が特徴だが、孔雀明王は唯一、慈悲を表した菩薩の顔をしている。

天部 古代インドの宗教の神々が仏教に取り入れられ、仏法の護法神となった者の総称。官服を着た貴人姿、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など多様な姿をしている。

 

仏の身体の特徴 三十二相八十種好

仏の身体には、三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)の特徴が備わっている。三十二相とは見てすぐに分かる特徴で、微細な特徴が八十種好である。これらの特徴を全て備わった仏像はグロテスクになって造れないので、いくつかの特徴を抜きだして仏像を制作する。経典により多少の相違がある。
三十二相
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう) 足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない。(扁平足)
2. 足下二輪相(そくげにりんそう)足裏に輪形の相(千輻輪)が現れている。仏足石はこれを表わしたもの。
3. 長指相(ちょうしそう)10本の手指(もしくは手足指)が微かで長いこと。
4. 足跟広平相(そくげんこうびょうそう)足のかかとが広く平らかである。
5. 手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
6. 手足柔軟相(しゅそくにゅうなんそう)手足が柔らかで色が紅赤であること。
7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。
8. 伊泥延せい相(いでいえんせんそう)足のふくらはぎが鹿王のように円く微妙な形をしていること。伊泥延は鹿の一種。
9. 正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
10. 陰蔵相(おんぞうそう)馬や象のように陰相が隠されている(男根が体内に密蔵される)
11. 身広長等相(しんこうじょうとうそう)身体の縦広左右上下の量が等しい=(身長と両手を広げた長さが等しい)
12. 毛上向相(もうじょうこうそう)体のすべての毛の先端がすべて上になびき、右に巻いて、しかも紺青色を呈し柔軟である。
13. 一一孔一毛相(いちいちくいちもうそう)身体の毛穴にはすべて一毛を生じ、その毛孔から微妙の香気を出し、毛の色は青瑠璃色である。
14. 金色相(こんじきそう)身体手足すべて黄金色に輝いている。
15. 丈光相(じょうこうそう)身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す。
16. 細薄皮相 (さいはくひそう)皮膚が軟滑でいっさいの塵垢不浄を留めない。
17. 七処隆満相(しちしょりゅうまんそう)両掌と両足の裏、両肩、うなじの七所の肉が円満で浄らかである。
18. 両腋下隆満相(りょうやくげりゅうまんそう)両膝の下にも肉がついている。
19. 上身如獅子相(じょうしんにょししそう)上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。
20. 大直身相(だいじきしんそう)身体が広大端正で比類がない。
21. 肩円満相(けんえんまんそう)両肩の相が丸く豊かである。円満。
22. 四十歯相(しじゅうしそう)40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である。(常人は32歯)
23. 歯斉相(しさいそう)歯はみな大きなが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。
24. 牙白相(げびゃくそう)40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。
25. 獅子頬相(ししきょうそう)両頬が隆満して獅子王のようである。
26. 味中得上味相(みちゅうとくじょうみそう)何を食べても食物のその最上の味を味わえる。
27. 大舌相(だいぜつそう)舌が軟薄で広く長く、口から出すと髪の生え際にまで届く。しかも、口に入っても一杯にはならない。
28. 梵声相(ぼんじょうそう)声は清浄で、聞く者をして得益無量ならしめ、しかも遠くまで聞える。
29. 真青眼相(しんしょうげんそう)眼は青い蓮華のように紺青である。
30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)睫が長く整っていて乱れず牛王のようである。
31. 頂髻相(ちょうけいそう)頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)の事。
32. 白毫相(びゃくごうそう)眉間に右巻きの白毛があり、光明を放つ。伸びると一丈五尺ある。

八十種好
耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(俗に福耳)
など

経典に仏像の特徴が書かれているとは、時代的に矛盾が生じると思われるが、実は、仏像の誕生以降に大乗経典が編纂されたものと考えられる。

 

なぜ仏像はパンチパーマなのか

三十二相の31番目に頂髻相がある。釈迦は出家していたので、本来は、剃髪であったが、仏像として表現するには、剃髪ではあまりに貧相に見える。仏師は勿論、仏陀(釈迦)の姿を見たわけではない。そこで、彼らには当時の王侯貴族の姿が高貴で尊厳があり、うってつけのように思えた。当時の貴族は少し髪を長めにして上方に紐で束ねた髪型であった。また、一説によるとギリシアの彫像の踏襲とも言われている。
ガンダーラ仏の初期のころは、ギリシア風のウェーブの髪で、頭上に束ねていた。
2世紀中頃から3世紀にかけて、仏師によって様々な髪型が生み出されるが、写実から様式へと変化していく。3世紀以降になると、中央インドの縮れ毛の人と如来像の影響を受けて、螺髪(らほつ)が出現する。
一方、マトゥラー仏では頭上が巻き貝型となっている。しかし、この巻き貝型は2世紀当初の作風のみである。この螺髪が、中国へそして日本へと伝わっていく。


ウェーブ髪型 巻き貝型(マトゥラー仏) 螺髪型


ウェーブ髪型と螺髪型の中間 ウェーブ型を後に螺髪型に改修
(東京国立博物館) (欧亜美術)

 

ガンダーラ起源説とマトゥラー起源説

仏像が誕生した時代と地域には長年論争があり、いまだに決着を見ないが、ガンダーラ地方とマトゥラーで、ほぼ同時に(1世紀中頃)まったく独立して仏像が誕生したというのが最近の説である。
それまでの説では、ガンダーラ起源説として、フーシェ説、ローランド説などがあり、マトゥラー起源説には、A・K・クマーラスワーミ説、ヴァン・ロハイツェン・ド・レーウ説などがある。
マトゥラーは、北インドにあり、クシャン朝の冬の都として栄えた仏教の盛んな都市である。
ガンダーラ様式の仏像
ガンダーラの仏像は、顔立ちが現実的で、卵方な顔で、ほりが深く、鼻筋は高く通って長い眉の彫りに連なっている。目を見開いていて大きく、立派な口ひげがあり威厳がある表現となっている。自然なウェーブがかかった髪を頭の上で結んで肉髻としている。そして、両肩を覆う形の通肩にまとった厚い大衣で全身を完全に肉体を覆っている。大衣は、体の起伏にそってゆるやかに垂れ、その前面には左肩を起点とした美しい曲線が描かれている。

マトゥラー様式の仏像
マトゥラーの仏像は赤色砂岩から刻み出している。丸顔で活気あふれる顔立ちをし、いかり肩で胸は広く、引き締まった体であることがわかる。右肩にまとまった大衣は薄く透けて、裸体のように見えたくましい肉体表現と一体化している。左肩から左腕にかけて表された襞は平行に刻まれている


マトゥラー仏(マトゥラー博物館)

仏像誕生の3要素
ガンダーラにて仏像が誕生するには、
* 仏教(上座部)
* ギリシア・ローマ系彫刻技術
* クシャン族
の三つの要素が必要であった。(田辺説)

 

なぜ、ガンダーラ地方にギリシア人がいたのか

アレキサンドロス大王の東方遠征 (前334年)
マケドニアの王アレキサンドロス大王は、これまで、ギリシア諸国の争いにたびたび干渉してきたペルシアを討つため、マケドニアとギリシアの連合軍を率いて、前334年に東方遠征に出発した。エジプトを征服後、ペルシアを滅ぼし、西北インド(ガンダーラ地方)まで進出した。王はインダス川流域を転戦し、東西にまたがる大帝国を築いた。これ以降の300年間をヘレニズム時代とよぶ。この時代には、ギリシア風の都市が多数建設され、ギリシア文化が広まり、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった。
マウリヤ朝 (前317頃~前180頃)
一方、前4世紀末に、インドではマウリヤ朝が興り、ガンダーラ地方からギリシア人を一掃した。最盛期のアショカ王は仏教に帰依し、保護した。
彼の死後、マウリヤ朝は衰退し、前2世紀にバクトリアからギリシア人勢力がガンダーラ地方に進出し、ヘレニズム文化をもたらした。
クシャン朝 (紀元後1~3世紀)
つづいて、イラン系遊牧民がガンダーラ地方に進出し、紀元後1世紀にクシャン朝をたてた。

ガンダーラ地方とは
現在のアフガニスタン東部、およびパキスタン北西部であり、中東からインドへの東西の交通路と西域からインド洋への南北の交通路との交差点に位置する。現在この地名は残っていない。その中心都市は現在のペシャワール。有史以来、数々の他民族の侵入を受けてきている。それと同時に東西の文化も交じり合った。

 

クシャン族とは

クシャーナ朝(英:Kushan 漢:貴霜)、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝とも呼ばれる。古代インドから中央アジアにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝である。もとは「月氏」と呼ばれていた。中国の敦煌の西にて勢力を誇っていた遊牧民である。人種的には、モンゴロイドでなく、コーカソイド系(イラン系)である。北方には遊牧民国家の「匈奴」がある。この匈奴に月氏は攻め立てられ、はるか西方へと逃れる。「鳥孫」と交戦しながら移動、やがてバクトリア王国を破ってこの地に落ち着く。バクトリアの地を中国では「大夏」と呼び、ここの月氏を「大月氏」と呼ぶ。大月氏は、バクトリアに入ってから5部族に分かれて100年間が経過する。AD50年頃、大月氏の部族の一つ、貴霜(クシャン)が全支配をかため、これよりクシャン朝を名乗る。クシャン朝は勢力を拡大し、バクトリアからインド西部までを領土とした。カニシカ王の治世がその最盛期であった。
都がプルシャプラ(現:ペシャワール)におかれ、マトゥラーが副都であった。
宗教 拝火教 あるいはその一派であるゾロアスター教。後に王族を含め、かなり多数が仏教に改宗した。
経済 ローマ帝国との貿易によって著しく繁栄した。絹、香料、宝石、染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として膨大な量の金がクシャーナ朝にもたらされた。彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともにインド古代史上最高のものとなった。

カニシカ王 1世
クシャン朝の王の中で最も有名な王である。在位年については長く議論され、現在まで定説と呼べるものはないが、おおよそ2世紀半ば。仏教を保護していたが、他の宗教とも関係が深かった。 カニシカ王金貨

 

なぜクシャン族は仏教に改宗したのか

まず、従来の宗教すなわち拝火教あるいはその一派であるゾロアスター教について述べる。この宗教は来世の存在と霊魂の不滅を肯定している。この宗教には善と悪を宇宙の構成原理とし、この世を善と悪の抗争の場と想定した。善に属するのがアフラ・マツダ神などの善神、悪に属するのがアフリマン、アジダハーなどの悪神や悪龍である。
霊魂は不滅であるので、人が死ぬと善人ならば、アフラ・マツダ神の住む無量光明の世界へ往生できるが、悪人は地獄へ堕ちると説いていた。それは、死後4日目の朝に決定される。ゾロアスター教の欠点というか厳しさは、第一に、生前に天国(極楽)に行けるかどうかが分からないこと。第二に、神も他人も自分が天国に行けるように助けてはくれない、即ち、自力で努力しなければならないことである。
一般大衆には、生前に極楽往生が約束され、しかも神や仏が救いの手を差し伸べてくれた方が魅力的である。そこで、仏教の登場である。ガンダーラ地方へは当時、上座部仏教が伝わっていたが、これではクシャン族を改宗させるほど魅力的ではない。そこで、革新的、進歩的な僧侶たちが、この旧式の仏教を根本的に改革し、クシャン族の心を魅了するものにする必要があった。なにしろ、クシャン族には、貿易で栄えた富があり、仏教教団としても、改宗させ、経済的基盤を確立し、発展させる必要があった。
まず、仏教徒の赴くところは、桃源郷のような魅力ある天国(極楽)であると説いた。即ち、大乗仏教の極楽である。
阿弥陀仏の裁縫極楽浄土の起源は、基本的にはゾロアスター教の無量光の世界(アフラ・マツダ神の住処)を取り入れたものである。(諸説有り)
次に、極楽往生への安易な方法、方便を示す必要があった。それは、供養を勧め、回向を説いたこである。元来、ゾロアスター教徒は、神、先祖に対して供養をする習慣があったので、更に、仏教教団は、クシャン族に盛んに供養(教団への布施、寄進)を勧めた。そして、その見返りとして回向を説いたのである。
回向とは、具体的に釈迦牟尼仏陀や弥勒菩薩などが所有している功徳を人々に分与することである。結果的に十分な布施をすれば、それに応じて功徳が得られるわけであるから、クシャン族にも良く理解できる。短絡的には、金で極楽往生が保証されるわけであるから、富裕なクシャン族はこぞって仏教に改宗したわけである。(田辺勝美著:ガンダーラから正倉院へ)
この説では、仏教がクシャン族に迎合し、クシャン族は極楽への免罪符を手に入れたように見える。しかし、この仏教は、大乗仏教として理論的に思想的に体系化され、多くの人々を教化するに十分な宗教に変革・発展したことは確かであろう。

 

なぜクシャン族は仏像を必要としたのか

ゾロアスター教の善神はクシャン朝のコインの裏に刻印されているが、いずれも人間の姿をしている。これは抽象的観念を人体で造形するギリシア美術における擬人化表現に由来する。
クシャン族の信仰において、国王の神格化と祖先の霊魂の崇拝がある。彼らは、英雄的な国王や王家の開祖を神と同等な存在とみなし、その肖像を制作して神殿や宮殿に安置し礼拝していた。
また、クシャン族のようなイラン系民族では、偉大な祖先の墓地の石棺に大きな浮彫があって、死者の霊魂がこの世に戻ってきて自分の肖像の中に宿り、子孫から供養を受け、また子孫を見守っているという考えがあった。
このように、偉大な人が死んだ場合、その死者の肖像を作って、それを礼拝することが当然のように行われていたのである。
クシャン族は偶像崇拝者であるので、仏教に改宗後は、まず、偉大な釈迦牟尼仏陀や弥勒菩薩の肖像を造って、礼拝しようとすることは、当然のことであったろう。
彫像技術を持たないクシャン族は、ガンダーラにあってはギリシア・ローマ系職人を、マトゥラーにおいては、インド系職人の力を借りて仏像を造らせたのであろう。


カドフィセズ王坐像(マトゥラー博物館)


パルミラ(シリア中部の隊商都市)
の死者の肖像(平山郁夫シルクロード美術館)

 

敦煌 莫高窟

世界遺産、莫高窟はシルクロードのオアシス都市 敦煌の東南25kmに位置する。断崖に南北に1700mに渡って掘られた734の洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置され、壁には一面に壁画が描かれている。これらは、4世紀半ばから13世紀に至る1000年間に造られた。
筆者は2007年8月24、25日の2日間訪問した。薄暗い窟内で懐中電灯を照らしながら20の一般窟を、特別窟45窟、57窟を拝観した。
45窟の脇侍の菩薩像の豊満で妖艶な姿、57窟菩薩図の伏し目な視線。井上 靖先生が「恋人を探しに敦煌へ行く」の言葉が思い出された。
ここは、「仏教とは、主に芸術を媒介として教義を伝える宗教である」ことが体感できる最高の聖地である。


断崖は3層に掘られ、回廊が渡されている。

57窟(初唐)菩薩図(絵はがきから)

45窟(盛唐)七尊像(絵はがきから)

 

雲岡石窟

雲岡(雲崗)石窟は中国山西省大同市の西方20kmにある東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院。世界遺産。北方遊牧民族(漢民族ではない)の王朝「北魏」時代。高僧 曇曜が文成帝に上奏して460年頃に、武周川の断崖の砂岩に開いた所謂「曇曜五窟」に始まり、494年、洛陽遷都までに大部分が完成した。この5窟の5体の大仏は、北魏建国の5人の皇帝を象徴している。道人統法果は仏教徒に皇帝を礼拝することを公に要求し、「よく道を鴻(さか)んにする者は人主なり。我れ天子を拝むに非ず、乃ちこれ仏を拝むのみ」(『魏書・釈老志』)と言ったという。曇曜五窟はまさにこのような「礼仏とは、すなわち皇帝を拝すること」という思想によって造られたものである。
筆者は2007年9月16日終日と17日午後に訪問した。大仏の威厳に満ちた表情と尊厳さに圧倒されたが、それ以上に第5、6窟の緻密な美しさ、第12窟の飛天や楽器を演奏する菩薩たちの優雅さが印象深かった。
また、武周川の対岸には、世界有数の炭坑があり、90両もの貨車を引いた列車が行き交っている。煤煙で石仏は煤けてしまったそうである。


第20窟 雲岡石窟のシンボル
地震の崩落により露天となった。

第19窟と第20窟を望む。

第12窟 音楽窟の名の通り5世紀の
響きが聞こえてきそうである。

 

仏像を誰が造ったか

どんな仏師(石工、塑工、画工)が造ったか
ガンダーラでは
ガンダーラの仏師(石工)は5歳ころから学校にも行かずひたすら石を彫っていたのである。
作風から推測するとギリシア・ローマ系の仏師と土着の仏師がいたようである。ガンダーラからギリシア神像など多数出土していることから、仏像の誕生以前から、需要はあったことがうかがえる。


土着的様式の古拙な仏伝図
草刈人の布施(ペシャワール博物館)

莫高窟では
仏師(塑工)、絵師(画工)は北側の窟に住み、現場に通っていた。生活は困窮していたようである。その証拠に、「典児契」という文書が発見されている。(パリ国立図書館蔵)
これは、子どもの担保にして金を借りた契約書である。
要するに、彼らは、名を残さず貧窮のなかで世界に冠たる砂漠の大画廊を残したのである。

北窟遠望(莫高窟前を流れる大泉河の橋上から)

 

仏像を誰が寄進したか(供養者は)

もちろん、仏教徒が先祖の供養、来世の幸福、極楽往生のために、また権力者が権威誇示のためなどに喜捨して造らせたことは確かである。莫高窟と雲岡石窟を例に挙げる。
皇帝(国家的事業)が
莫高窟第96窟の大仏は唐代の則天武后の勅願である。雲岡石窟の曇曜五窟のように如来と皇帝とを同一視させるために国家事業として造営したものもあるが、多くはない。
豪族・貴族が
寺院や石窟の造営には莫大な資金を要する。莫高窟の多くは、裕福な豪族や貴族が供養者となっている。その供養者を壁画として窟内に残している。
一般庶民が
莫高窟には間口1m四方、奥行30cmほどの小さな窟もあり、現在では風化し往時の形跡は何もない。おそらく一般庶民が先祖供養あるいは極楽往生のために少ない財産を喜捨して造営したのであろう。
更に莫高窟には特異な窟として、唐代に作られた第107窟がある。3m余四方と小さく、ぼってり型の女性の供養者二人の画のみが残っている。当初は供養仏が6体あったらしい。その脇に祈願文がある。
「賎を恥じ、生まれ変わったら良き妻に」
すなわち、人生で行った卑しい行為を恥じ、生まれ変わったら、誰かの妻にならせて下さいという。そう願った二人の女性は妓女であった。容姿の衰えた妓女は出家するのが常だった。彼女たちは、俗世の罪を償おうと、身体を売って稼いだお金を、出家に際してこの石窟に喜捨したのだろう。当時は、妓女に身を落とした女性は、普通の妻になることは叶わぬ夢であった。その夢をこの石窟に託したのだ。
筆者は、何とかこの窟の拝観をガイドに依頼したが一般開放していないので不可能であった。施錠された扉の前で、手を合わせるだけであった。

 

仏像は何で造られたのか

仏像の素材として、石材、ストッコ、テラコッタなどがある。
石材
ガンダーラでは、主に緑泥片岩である。博物館で間近に見ると、片岩に含まれる雲母がライトに反射して美しい。マトゥラーでは、赤色砂岩なので、少々赤みがかっている。
ストッコ
ガンダーラでは、石彫より百年ほど遅れて、ストッコ(Stucco)と呼ばれる粘土(漆喰、石灰)で塑像がつくられ、自然乾燥された。これは、型押しによって、大量生産が可能であり、安価に供給することができたため、3~4世紀には大いに流行した。ストッコの出土としてアフガニスタンのハッダの遺跡が有名であったが、1979年にソ連のアフガニスタン侵攻で殆ど破壊されてしまった。
テラコッタ
この意味は泥焼、素焼であり、低温(800度以下)で焼成される。中国では「俑(よう)」と呼ばれる。
現在、これらの仏像は、彩色が失われているが、当時は鮮やかに彩色されていたか、金箔が貼られていた。
ちなみに、ギリシアやローマの大理石彫刻は制作当時には彩色されていた。ルネサンスの頃、これらの色が失われた彫刻を参考にミケランジェロなどが彫刻を造っても彩色はされなかった。それは、無彩色と思われていたからである。
右図は、仏師向(むこ)吉(よし)悠(ゆう)睦(ぼく)師、中村佳(けい)睦(ぼく)師(彩色)の現代の釈迦如来立像である。ガンダーラ仏もこのように彩色されていたことだろう。
敦煌莫高窟では
断崖は礫岩で、大変脆い。そのため、塑像と漆喰壁への壁画で構成されている。乾燥地帯と直射日光があたらないため色彩は良く保存されている。ただ、清代に重修された仏像もあり、唐代の写実的な美は失われていることは残念でる。
雲岡石窟では
断崖は砂岩であり、窟を掘りながら、仏像を彫りだせる。砂岩面の上に漆喰を施し、彩色されている。ただ、窟内に滲みでた雨による侵食が痛々しい。

 

ラピスラズリの輝き

古代、ラピスラズリ(青金石)は、アフガニスタン北部の山中でしか採れなかった。黄金以上に貴重な宝石である。それは、5500年前には、その細工物がメソポタミアに伝わり、5000年前にはエジプトの歴代ファラオに愛好された。当時はそれを粉砕すると、群青の顔料になる。中国や日本では「瑠璃」と呼ばれる。
キジル「青の洞窟」
翻訳僧 鳩摩羅什(くまらじゅう)の出身地である亀(き)茲(じ)国にシルクロードの中継都市クチャ(庫車)がある。そこの郊外にキジル千仏洞があり、別名「青の洞窟」と呼ばれる。壁画がラピスラズリをすり潰した顔料をふんだんに使って描かれている。当時、青は、仏の世界の清らかさを表す色として尊ばれていた。4世紀の亀茲国の経済力、豊かさを垣間見ることができる。

薬師如来
薬師如来は、薬師瑠璃光如来とも呼ばれる。おそらく、洞窟壁画の薬師如来の光背は、眩いばかりの群青で描かれ、その光は礼拝者をも包み込んでいたことだろう。

ウルトラマリンブルー
ルネサンス期の西洋絵画では、群青の顔料としてラピスラズリ粉末を使っていた。ウルトラマリンと称する。アフガニスタンから由来するため、純金以上に貴重で高価であった。
フェルメール「真珠の耳飾りの少女」(マウリッツハイス美術館)のターバン等に見られる青は、天然ウルトラマリンブルーである。天然ウルトラマリンはフェルメールの絵画において特徴的な色彩である為、フェルメール・ブルーの異称で呼ばれることもある。
近年では、人工的に合成可能になり、また、シベリア、チリ、カナダ、アメリカなどでも産出するようになった。

 

ヘラクレスから仁王へ

ヘラクレスは、ギリシア神話の主神ゼウスを父に、人間の王女アルクメネを母に持つ数々の武勇伝で名高い英雄である。
ガンダーラで彫られたヘラクレスは金剛(こんごう)杵(しょう)を握っているので、執金剛と呼ばれ、常に、釈迦の脇にいる守護神である。この執金剛神が中国に渡ると二体神となり、一つは阿形(開口)で金剛力士、他方は吽(うん)形(閉口)で蜜迹(みつしゃく)力士と呼ばれるようになった。日本に伝わり、寺院の入り口を守護する仁王となった。
ギリシア神話の英雄が極東の島国の津々浦々の寺まで仁王像として守護にやって来てくれたのである。
この他にも、古代インド、ペルシャの神々が仏教に取り入れられた例は多い。
例えば、
クベーラ神(インド) → 毘沙門天あるいは多聞天
ブラフマン神(インド)→ 梵天
インドラ神(インド) → 帝釈天
アスラ(ペルシャ)  → アフラ・マツダ神(ゾロアスター教 )→ 阿修羅
などがある。

アトラス ガンダーラ2-3世紀  ヘラクレス ガンダーラ   蜜迹力士 東大寺
ガンダーラでは小仏塔の下層に        2-3世紀
多数描かれ、これを肩で支えて  ←↑平山郁夫シルクロード美術館
いることが多い

 

東京大学入試でも出題された

東京大学 2005年前期試験にて次の問題が出題された。
この講座をお聞きなった方は、簡単に解けるでしょう。

ギリシア人はみずからをヘレネスとよび、その国土をヘラスとよんでいた。アレクサンドロス大王の東征以後、ギリシア風の文化・生活様式はユーラシア西部に広く普及し、その後の世界にも大きな足跡を残している。(後略)

問 オリエントあるいは西アジアに浸透したヘレニズム文明は、さらにインドにも影響を及ぼしている。とりわけ、1世紀頃から西北インドにおいてヘレニズムの影響を受けながら発達した美術には注目すべきものがある。その美術の特質について、3行以内で説明しなさい。

解答欄

解答のポイント
ガンダーラ美術、ヘレニズム文化の影響、仏像の製造の開始、の3点をおさえて簡略にまとめればよい。

 

参考資料

参考文献
高田 修 仏像の誕生 岩波書店 1987 (岩波新書 絶版)
高田 修 仏像の起源 岩波書店 1967 (絶版)
田辺勝美 ガンダーラから正倉院へ 同朋舎出版 1988 (絶版)
山田樹人 ガンダーラ美術の見方 里文出版 1999
栗田 功 ブッダの生涯 二玄社 2006
佐藤次高他 詳説世界史 山川出版社 2006 (高校教科書)
向吉悠睦 中村佳睦 やさしくわかる仏像入門 ナツメ社 2007
NHKスペシャル 新シルクロード3 日本放送出版協会 2005
平山郁夫コレクション 図録ガンダーラとシルクロードの美術展 東京藝術大学 2000
田川純三 敦煌石窟 日本放送出版協会 1982

国内でガンダーラ仏が拝観できるところ
東京国立博物館 東洋館 東京都台東区上野公園13-9
平山郁夫シルクロード美術館 山梨県北杜市長坂町小荒間2000-6
古代オリエント博物館  東京都豊島区東池袋3-1-4 サンシャインシティ文化会館7階
松岡美術館 東京都港区白金台5-12-6

ガンダーラ仏が購入できるところ
欧亜美術(栗田 功店主)東京都中央区京橋2-9-9 ASビルB1F
TEL&FAX 03-3561-5273 http://www.eurasian-art.com/

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