ブハラ
サンスクリット語で「僧院」を意味するブハラには、6世紀まで仏教寺院が存在した跡がある。その後は、数々の栄枯盛衰の歴史があり、1220年には、モンゴル軍の来襲で灰燼に帰してしまうが、16世紀になって再びよみがえる。
玄奘三蔵がここに立ち寄ったことには少々疑問が残る。なぜなら、サマルカンドから200kmも離れていて、この後、サマルカンドまで戻っているのだ。つまり、インドへの途中ではなく、寄り道となっている。1日でも早く目的地であるインドに行くのにわざわざ寄り道をするとは考えにくい。
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ミル・アラブ。メドレセ前の通りに並べられたお土産用のイスラム陶器。幾何学模様が美しい。
大唐西域記には
捕喝国
捕喝国は周囲が千六、七百里で、東西が長く、南北が短い。物産。風俗は颯秣建国と同じである。 この国より西へ行くこと四百余里で伐地国に至る。
と記されている。(水谷真成訳 大唐西域記 平凡社から引用)
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早朝のカラーン。ミナレット
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マゴキ・アッタリ・モスクの正面。6世紀まで、ここには仏教寺院があった。
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マゴキ・アッタリ・モスクは発掘されたため地面より5mほど低い所にある。
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カラーン。ミナレットは上部まで細かく彫り込まれている。
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今日も食事は、ラグマン、サラダとナンである。テーブルクロスはウズベクの伝統的模様。
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リヤカーでナン売り
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こちらは屋台でナン売り。早朝なので影が長い。
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チャル・ミナルの前で暫くぼーっと休んでいたら、老人がやって来てひとしきりおしゃべりの後、行ってしまった。
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すると、女の子がやって来て、しきりにポーズを取る。
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可愛いウズベクの少女であった。
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ブハラから15km南東のカガンの町にある駅。
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ここからサマルカンドまで列車での移動。
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2等寝台車
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