激戦の地 世田城と笠松城

興国3年(1342年)に愛媛県今治市の笠松城は篠塚伊賀守が守り、世田城は伊豫国守護・大館氏明が守って、北朝方の細川頼春と対峙していた。 (詳細は、伊賀守波乱の生涯のページを参照)
そこで、何としても、世田城と笠松城に登ってみたいと思い立ち、2009年5月15~18日に高速道路休日1,000円を利用して、往復1,900km運転の一人旅に出かけた。
16日は魚島を3年ぶりに再訪し、佐伯氏と再会した。その後、しまなみ海道を渡り、午後4時、世田山と笠松山を遠望できる地、愛媛県今治市朝倉に到着した。
翌17日に、世田山と笠松山に登山し、かつての激戦に思いを馳せた。

世田山、笠松山遠望

今治市朝倉(旧朝倉村)には「史蹟 世田、笠松城趾」という大きな看板があり、そばに「世田山合戦と朝倉村の歴史」を解説した看板がある。 世田山(標高338m)と笠松山(標高320m)とは峰続きであることが分かる。2008年8月24日夕刻に笠松山は山火事に見舞われ、発生から48時間で107haの山林が焼失した。 確かに、山の半分が焼け焦げている。
さて、明朝、笠松山に登りたいので、登山コースを地元に人に尋ねたが、「登れるけど、山火事の煤で真っ黒になるぞ」と脅かされる。 諦めずに、別の場所で農作業の人に尋ねたら、朝倉支所の所から入って行くと楽に登れるとのことで一安心し、ホテル探しに今治市内へ車を進めた。


世田山と笠松山の南東側の広域農道沿いに看板がある。
看板のすぐ右側が笠松山で電柱のすぐ左側が世田山である。


解説文の右半分


解説文の左半分


世田山と笠松山共に独立した山であり、南東側の旧朝倉村は平野であり、山の向こう側は海岸である。

世田薬師

17日午前8時、高野山真言宗 栴檀寺(せんだんじ)通称 世田薬師に到着。この寺には、世田山の合戦で戦死した新田一族の大館氏明公の墓所がある。 案内看板を見ると、世田山の城址まで登れそうである。そこで、住職に確認したところ、奥の院から世田山へ登れ、笠松山へも楽に行けるとのこと。 また、群馬県太田市から墓所参拝や歴史に興味のある方々が訪れるとも話していた。確かに、太田市と今治市は姉妹都市である。 雲行きが怪しいので、早速、登山開始。


世田薬師本堂。本堂の右側に登山道がある。


案内板は山門前にある。世田山から笠松山まで道が描かれている。


偶然に道連れとなった、年配のご婦人たち。下山後に、伊賀守の解説書を進呈した。1週間後にお便りを頂いた。


途中で磨崖仏を造立していた。

世田山

世田薬師から1.6km、のんびり歩いて50分ほどで世田山頂へ到着した。登山というよりハイキングである。 城址はどこだか分からない。平地もない。岩場だけである。
石垣跡ぐらいあるものと期待していたのであるが。山頂から裾野を見下ろしても崖ではあるが、難攻不落の断崖絶壁というほどではない。 その向こうに、今治平野と周桑平野そして、瀬戸内海を見渡すことができ、戦略上の要所であることを実感できる。 大館軍は、よくもこんな所で籠城していたものかと、あっけにとられてしまった。 そして、最期には、この付近で大館氏明と17人の武将がどれ程の無念の思いで自刃したのであろう。


山頂に岩場


晴れていれば、ここから、瀬戸内海を一望出来るはず。


山頂にある解説文には篠塚伊賀守の名前もある。


頂上から100mほど先にある休憩所。山菜採りで賑わっていた。


いよいよ、峰続きの笠松山へ向かうが、山火事の跡。木々は炭化している。


世田山から笠松山を望む。かつて連絡のため足軽が行き来していたのであろう。


途中にある案内板。世田山と笠松山とは1.1km。

笠松山

いよいよ、最終目的地である篠塚伊賀守激戦の城、笠松山へ向かう。世田山からは所々に階段があり歩きやすい。 しかし、山火事の跡が痛々しく、炭化した木々と新緑の木々の境がくっきりと確認できる。 消火活動は困難を極め、自衛隊のヘリで海から海水を運んだそうである。
笠松山頂には共同アンテナがあり、麓からでも確認できる。 また、山頂には観音堂があり、伊賀守とゆかりがあることが付近に立つ案内板から読み取れる。 山火事の痕跡はアンテナと観音堂のすぐそばまで迫っていて、何としても死守した消火活動のご苦労を実感した。 山頂には、平地と呼べるようなところはない。北側に標高差20mほど下ったところにテニスコート5面ほどの平地があるが、 近年に公園として整地したと聞いている。
山頂からは、今治市街、来島海峡大橋などのしまなみ海道が一望出来る。 ここへのハイカーの多くは、かつて激戦の地であることなど知るよしもなく、心地よい海風を浴びながら瀬戸の島々を一望しているのであろう。 山頂から麓までは、世田山よりなだらかであり、自然の要害とは言い難い。 観音堂のそばには「笠松山本堂再建 大正十年四月吉日」とあり、裏面には「篠塚本次」など7名の銘がある。下山後、世田薬師の住職の話では、この付近には篠塚姓は多いそうである。 観音堂の中にて、伊賀守重廣公供養の法要を営んだ。

解説文の全文を紹介すると、
朝倉村の笠松山は国立公園の一つであり昔銘木傘の形の松があった。現在は枯れてない。
わたくしにふる雨しのぐかさまつの
滝の水木のあらんかぎりは河○○
年代は明らかでないが河○四○為○の隠居所があったといわれ南北朝の忠臣篠塚伊賀守の居城があった。 笠松山観音堂は伊賀守が城を落ちのびる際、兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を笠松山頂に安置して去ったものを戦の後、村人がこの地に小祠を建てて祀り、その後度々改築されて現在に至った。
とある。
○は、かすれて判読不可能を示す。


世田山から笠松山へ向かう途中、山頂を望む。頂上にはアンテナが立っていて目印となる。山火事の境目がくっきりと判別でき痛々しい。


山頂が少し下った広場にある解説文


看板のある広場。近年、整地したらしい。東屋とトイレ完備。


山頂の観音堂に立つ。


左から観音堂、建立碑、そして、その右側の木々は焼け焦げている、


観音堂の犬走りから瀬戸の島々を望む


建立碑には「笠松山本堂再建 大正十年四月吉日」とある。


建立碑の裏面には「篠塚本次」など7名の銘、更に「正善寺」とあり、麓の寺院の管理と分かる。


笠松山から世田山を望む。伊賀守は、ここから世田城の落城と討ち死を知ったのだろう。

大館氏明墓所

大館氏明公は新田義貞の甥にあたり、伊予の守護として世田城主に任ぜられた。 しかし、1342年、北朝方の細川軍に攻められ、17人の勇士とともに切腹した。時に氏明38才。 そして、故郷の群馬県新田から遙か彼方の地、ここに眠る。


世田薬師の奥の院。右奥に大館氏明らの墓所がある。


大館氏明の墓所


墓碑には「大館伊豫守源氏明朝臣之墓」と刻まれている。


墓所の解説文

桜井海岸

伊賀守が一人で敵中を突破し、たどり着いた海岸(太平記には今張浜とある)がどこであるかは定かでないが、直線距離で最短の所が桜井海岸である。
ここから、沖の島(魚島)まで40km。伊賀守沖の島へ渡る錦絵と伊賀守が敵を蹴散らす太平記絵巻の写真を持って、写真を撮った。


桜井海岸にて。向こうの岬は虎ケ崎

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